武藤 喜一郎。
 この男、我が国におけるPBAスタイル第1号ボウラーだ。
 
昭和27年(1952年)我が国初めての民間ボウリングセンターである東京ボウリングセンター(TBC)が青山ににオープンしたこの年の12月、そのかまぼこ形の建物の水道工事を受け持ったオッさんが武藤喜一郎なのである。
水道工事屋さんである。工事のついでに投げていたのだ。

 いまでいうオープンショルダー。バックスイングはほぼ頭上。肩はやや開き気味である。が、腰は現PBAプロと同様にほぼターゲットに正対だ。リリースはリフトアンドターン。  
わたくしより15歳年上だったと思う。背は165a程度か。

 どなたか武藤喜一郎の投球写真をお持ちでないだろうか?

 住まいが池袋ハタボウリングセンター前の路地を入ったところの右側にあったので、ハタがオープンした後はハタがホームグランドだった。武藤喜一郎の様(さま)になっている投球フォーム写真はもしかするとハタに残っているかもしれない。
懐かしい。
人間的に大好きだった武藤喜一郎の投球をもう1度みたいものだ。

 昭和40年、第2回全日本選手権が大阪の吉本ボウリングセンターで行われた。
そのときわれわれは武藤喜一郎をキャプテンとして、リードオフすみ、2番手伊藤、3番手井本、アンカーマン武藤喜一郎で戦った。
そして、武藤の活躍で見事優勝を勝ち取ったのだった。

井本などは1ゲーム9発のストライクを出しながら、180台のスコアなんてのがあった。
みな武藤喜一郎がカバーしてくれたのである。いまでいうPBAスタイルで。  
武藤喜一郎おじさんには、ハタコーチングスタッフに参加していただいたものだ。

優勝もさることながら、わたくしがおじさんに1番感謝しているのは、ハタ前の路地を入った右側に鮨文という鮨やを紹介してもらったこと。これが素敵な鮨やだった。
ハタ時代約6年通った。わたくしはウナギと穴子が嫌いだった。決して食べなかった。
通い始めて3年目ぐらいだっただろうか。ある日鮨文の大将が、おそるおそる言うではないか。
「すみさん、本当はねウチの穴子を食べてほしいんですよネ・・・」 
1貫を半分にしてチャレンジしてみたんですよ。オレはいままで人生大損を食らっていたと思ったね・・・それ以来鮨文の穴子にハマった。人生ひとつ得が増えた。
武藤喜一郎さまさまである。
ウナギは何故かいまだに駄目だ。  
そんな食い気もとても大切だけれど、武藤喜一郎の好々爺ぶりには思い出が一杯である。プロ1期生の波間章、佐藤則夫、大久保洪基、岩上太郎、4期生の田安明、こういった連中はみんな武藤喜一郎が大好きだったはずである。  

 さて、PBAスタイルとはいったい何か? これはPBA風であってPBAではない。
いわば和製英語のようなものである。あたかも本場物の様であるが、本場では決して通用しない代物なのだ。  
日本のプロのPBA投法の多くは和製英語であると有元勝氏は指摘する。
わたくしもそう思う者だ。ロウダウンって言ったってUSAでは決して通用しない。
しかし、あたかも通用するかのように装っている投法がロウダウンつまりジャパニーズPBA投法なのである。和製PBA投法なのだ。
多くのJPBAプロのPBAスタイルはほぼこの和製英語投法だ。
これで奴らに勝てるはずはないのだ。そこに気づいているのが有元勝氏で、肝心の和製英語投法者のJPBAプロは未だに気づいていないところに大きな問題がある。
1度有元氏にコーチを受けるべきである。
 武藤喜一郎時代ならともかくも、この今の時代にロウダウンはないだろう。
こんなところでうろうろしているウチはPBAに勝てるわけはない。ではどうしたらいいのか?
 有元コーチはいまそれで苦労しているのだ。武藤喜一郎から抜け出すために、JPBAプロがPBAに勝つためにいかにあるべきか?悪戦苦闘しているのである。

お互い期待して待とうではないか・・・待っているよりキミはコーチをつけるべきだ。声をかけるべきだ。
どうですか? 名コーチすみ光保はどうか? 安くしておくよ・・・!!!
と何度も言っているのに声をかけられたことがない・・・ 

次ページ「病室からご挨拶」
すみ光保

すみ光保(すみみつやす)

■1935年東京都生まれ。株式会社スミ代表取締役。1967年にライセンスNo.4第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。
主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、VJボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。

BackNumber
このページの先頭へ