1963年(昭和38年)当時、日本で初めてのボウリング専門雑誌を秋元 泉氏などとつくっていたわたくしは、その奥付に編集長として名前を表記していた関係からか、新設予定の多くのセンターからお声がかかりました。

その中のひとつにハタボウリングセンターあったのです。売れそうもない雑誌づくりより堅実だと、後任の編集長を秋元氏に引き継いでハタと契約。副支配人待遇で企画室室長&コーチングスタッフチーフです。

最初に手がけた仕事が「招待ボウリング教室からリーグへのパターンづくり」だった。
報知新聞とのタイアップだ!!
オープンすれば即何時間もの待ち時間がでる時代に、無料の教室開催は経営陣に大きく反対された。
しかし旗社長だけは物わかりが良かった。共感さえしてくれた。

この時の体験が1974年ブランズウィック会発足後発表した販促企画「無料教室からリーグへのパターンづくり」であります。
1977年アメリカよりLTBシステムが導入された。米国ブランズウイックのローシャンという男が中心で開発されたものだ。当時のブランズウィック折戸副社長が翻訳、すみ光保がアドバイザー。社内で検討した結果、まず日本で成功するかの実験を行うということになる。  
当時のブランズウィック・ナゴヤ(BN)現スポルトにローシャンをチーフとして、わたくしすみ光保と高田誠の3名がLTBプロジェクトを編成、行動を開始した。ハタ時代に作成したわたくしのものと比べて、流石ボウリング先進国、内容の深みが全く違った。恐れ入りましただ。  当時6ヶ月間ナゴヤにホテル暮らし。  

さて、わたくしはセールスにBNの近くにある千早町小学校にブッ込みでセールスに行った。PTA会長に会った。剣もほろろに断られた。こうだ  「今どきボウリングなんかヤル人居ないよ」  「いえ、会長はおやりにならなくても、ウチには貴校のお母さんが沢山お見えです」  本当は沢山なんて来ていなかった。何せ業界最悪の時代だったのだ。

何日か後、コネを頼りに千早小PTA厚生部部長に会う。この女性がボウリング大好き人間。ラッキーだった。トントン拍子に話は決まり、日本で第1回目のLTB教室が開催された。チーフインストラクターすみ光保プロ、アシスタント小林万修プロ(現・(株)スポルト常務取締役・何故俺はみんなに追い越されていくのか?)なんと当時88名の参加だった。
リーグにもつながった。大成功だ。気をよくして次をサッポロビール園の女子寮に焦点を合わせる。セールス成功、リーグ全員参加という。  その日リーグ参加者を待っていた。しかし誰もやってこない。1時間待っても誰も来ないので、ビール園まで行きました。教室参加者はわたくしをみると何故か隠れてしまう。後になってわかったのだけれどもできあがっているグループには必ずリーダーが居るものです。そのリーダーを味方につけられていなかったのです。  

こんな体験を基に現在のLTBシステムはつくり上げられました。現在我が国で行われているボウリング教室のシステムはわたくしがその体験とアメリカブランズウィックのノウハウとを合体させてできあがったものなのであります。
つまりわたくしすみ光保が家元なのであります。遅ればせながら自慢しているのであります。
誰も言ってくれないから自分で言うのであります。インストラクターとしてすみ光保は偉いのであります、凄いのであります。  

しかし、本当のことを言いますとわたくしはもう時代遅れになりました。跡継ぎは数は少ないけれど何人かは現れ始めています。しかし、残念ながら現役のプロを指導できるプロコーチがいないのです。
これではPBAに勝てない。そのための下地づくりがいま大きく求められるのですが・・・この前提がない限り我が国におけるインストラクター制度は意味を持たないといっていいでしょう。家元がその役割を果たせていなかったのであります。
JBP(PBAジャパン)に期待するか・・・?


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すみ光保

すみ光保(すみみつやす)

■1935年東京都生まれ。株式会社スミ代表取締役。1967年にライセンスNo.4第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。
主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、VJボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。

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