バズ・ファジオ
 1966年(昭和41年)、当時PBAの選手会長でもあったバズ・ファジオを招いてのインストラクター・クリニックがBrunswick主催で開催されるというのだ。 いやー、心躍りましたね。何せわたくしはコーチの仕事を行いながら、その裏づけたるものが何もなく、ただ自分のささやか体験と、ある程度のアメリカにおける書籍を手がかりに行っているに過ぎなかったのであります。 飢えていました。インストラクター&コーチのノウハウを学びたくて仕方ありませんでした。そんな時バズ・ファジオがやってくるという。ぶっ飛んで行きました。
 通訳つきの3日間の講習でした。通訳の長嶋さんがまた素晴らしかった。 感激しました。当時66歳だったバズのボウリングに対する情熱、バズになりきって通訳してくださる長嶋さんの名調子と相まって最高のインストラクター講習でした。 あまりの感激に黙っているわけにいかなく、バズと当時のBrunswick添田社長に心を込めてお礼状を出しました。その手紙がキッカケで「バズ・ファジオのボウリング教室」という映画の監修役に指名されたのです。
ボウリングを教えることで生業をたてている者は、JBCの会員になれないアマ規程が採用され、日本でのプロ組織はまだ早いと思いつつもバズに相談。バズはPBAにおける組織づくりや苦労話をしてくれた後、言ってくれました。 「スミ、オレがついている。早すぎることはない。頑張ってプロを立ち上げろ。」これに動かされました。 翌1967年(昭和42年)JBPAが立ち上がりました。 そしてここから38年間の永きにわたるBrunswickとの契約が始まったのです。1本のお礼状がそれ以降の運命を変えたのであります。


ホワイティ・ハリス
 インストラクタークリニックで大成功を収めたBrunswickは、翌年の1967(昭和42)に今度は世界記録樹立のバドワイザーチームのキャプテン、デック・ウエーバーのコーチ役でもあるホワイティ・ハリスを招聘しての講習が行われる。すでにBrunswickのアドバイサリー・コンサルタント・スタッフとして契約しているわたくしは、当然ホワイティのアシスタントだ。ここでもまた心躍る。
 日本を26地区ぐらいだったろうか? 約3ヶ月ぐらいかけての講習。ホワイティは講義や実技を少しずつわたくしに担当させてくれた。すみに引き継がせるという心づもりがあったのかも知れない。以前書いたポジティヴシンキングもホワイティからのプレゼントだ。バズの講習は3日間ビリビリとした緊張感の中での講習だったけれど、ホワイティの講習は3日間笑いの連続だった。わたくしはバズから厳しさを、ホワイティから楽しさを教えられた。そして後日1979年に遭遇するビル・ブネッタからはボウリングを科学的に捉える姿勢を学んだ。 ビルに関しては後日触れたいと思うが、わたくしにとってこの3名は仲間ではなく恩師なのであります。 




次ページ:フラッシュバック的な思い出深き仲間の振り返り2
すみ光保

すみ光保(すみみつやす)

■1935年東京都生まれ。株式会社スミ代表取締役。1967年にライセンスNo.4第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。
主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、VJボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。

BackNumber
このページの先頭へ